ルノワール展へ、棒に当たりに行ってきたこと

書いていたものに行き詰まりが到来したので、ルノワール展へ行ってみました。

犬も歩けば棒に当たるといいます。

行き詰まった人間は、無目的にほのぼのとは歩けません。

思考が糸だとしたら、容易にほどけないからまりを呈しています。

それが頭蓋骨いっぱいに詰まっています。

糸の断端を探しては、引き出して、千切って、もぞもぞと編んでみるものの、もう断端が見つからない。

見つからないので、新しい糸を探そうという気を起こす。からまった糸の玉を保留にする。

 

そういう状態で、ルノワール展へ行ってみました。

犬も歩けば棒に当たる。私だって歩けば糸を見つける。に、ちがいない。

ほのぼのとはしていませんね。割と必死です。

 

麦わら帽子の少女の前で立ち止まりました。

目を伏せた少女が、軽い色味で描かれています。大きな作品ではありません。展示の初めのほうにあります。

どうやら、そこで足を止めるひとはあまりいません。

解説や音声ガイドの付加されない絵だったのかもしれません。覚えてないですけど。

ちょうど登場人物のひとりに似合う雰囲気の絵でした。

「こっちを見て、笑って」とお願いしたら、きっと恥ずかしそうに笑う。その笑顔を想像できる。帽子を外したところも。そういう少女の絵です。

 

最初にそうして妄想を始めると、そのあとの絵にも影響します。

ルノワールの絵は、くすんだ淡い暗がりの背景のなかで、人物が光に浮かびます。

ライトが向けられているというよりは、人物自体が、光をにじませている。

女性たちの、白い肌そのものが、やわらかい光を放っています。

光をにじませる女性たちの横顔、後ろ姿。視線の合わないポーズ。全体の形。シルエット。

笑顔そのものを見るよりも、表情の見えないもののほうが、女性のうつくしさを想像させます。

「あの」と声をかけたら、振り返って、ほほえんでくれるでしょう。やわらかく、たおやかに。

視線の外れた絵ほど、色気があるとわかったのは、糸の一本です。

カンバスは完全な静なのに、次の瞬間の「動き」を脳内映像に変換できる。

よくある表現ですけれど、彼女たちは、絵の中で「生きている」のだと思います。

追記、目の合う絵ほどこわいものはありません。

 

犬も歩けば棒に当たる。

絵の展覧会というと、時々行くけれど、絵の見方を知りません。

自分がなにか感じるかどうかだけで、解説文をほとんど読みません。音声ガイドも聞きません。

美術品以外の展示の時では、両方利用します。

ただ、一箇所で音声ガイドが流れ切るまで、立っているのが、少し苦痛です。

仕方なくなんとなく眺める展示物になってしまうことがあります。

展示物も、自分も、「なんだかな」な感じ。

美術品は、気になったものの前で、観察するのが楽しいですね。

作品そのものと、自分の考えることを観察する。

作品ひとつひとつにかけられた時間や工程を思うと「気になる」「気にならない」だけで楽しんだら、作者が悲しむのじゃないかなと、それが申し訳ないけれど。

 

私の目的は「犬も棒に当たること」なので、自分の感じ方を観察するために、気になった絵の前にしつこく居続けます。

(ひとのいない所まで、身を引く分別は持っています)

立つ位置を変えて、観察する。

技法がどうとかそういうのはわからない。油彩はしたことがないし。

線で描くのじゃないな、色彩、光、影、そういうものなんだな。

背景のあの暗がりがあるから奥行きになって「動き」の映像変換ができるんだな。

水汲み場。

劇場。

カフェ。

どこから見るのかっていう角度、視点。

しばらく展示を進んでからやっと、ルノワールっていうひとは、どんなひとなのかな。と興味を持ったりします。

遅い。

そうして、説明書きを探しに戻ります。

うろうろと行き来です。

なるほど、宗教がらみやお金持ちの人々じゃなくて、市井の暮らしのなかの、うつくしさを引き出そうとしたのかな。

きれいなものをきれいに描くのじゃなく。

ひとそのものの内側からのうつくしさ。

世界はうつくしいという信念みたいなもの。

ひとびとを愛したひとなのかな。

「人間は、世界は、うつくしいよ」

そんな感覚を受け取った気がします。

ルノワールの目で見たら、この日常はどんな絵になるだろうか。

正確な情報ではなく、個人の感想。実際細かい出生地や年表や生活環境や人間関係など調べていないし、調べる気もないです。

美術展の利用法の発見。

画家の世界の捉え方を吸収する。

 

犬も歩けば棒に当たる。

さっさと書けなくてはとか、すいすい書けなくてはとか、そういう風にできるひとしか、書く資格もないと、行き詰まってからは特にそう思っていたけれど、ひとそれぞれの能力があるのだから、仕方ないと諦めました。

20枚書いては、最初に戻り、また20枚書いては戻る。

一歩進んで二歩戻る式になら書けるのだから、そうするほかないのでしょう。

工夫できるとしたら、早目に工程を進めること。

どうせ戻るのだと予想できる。やってみて思いつくことが多い。

 

ルノワールを見て、感じたことがもうひとつ。

最近、エンデを読んで教えられていたことでもあります。

「時間を注いでつくったものには、命が宿る」

時間は命だとエンデは言います

時間を注ぐことは、命を注ぐこと。

命を注げば、命が宿る。

ルノワール、どうして「静」なのに「動き」を脳内映像に変換できるのか。

くすんだ背景の上で、人物が光ににじんで浮かぶのか。

まるで透明な羽が生えているように見えるのか。人体の構造を再現しながら、幻想的。

ルノワールが描くことに膨大な時間を注いだ結果なのでしょう。

観察、修練。完成させること。

注いだ分、なにかが宿る。ただ、身の丈にしか事を成せない。

それでいいか。それでいいや。

だから、身の丈の分、できるようにやろうと思いました。

完成品を見てくれるひとがいるのか、必要なひとがいるのか、素人が悩んでまで書く必要があるのか、とか、その辺は別の要素としての思考過程を持っているので、またほかの時に。

さて。

以上がなんなのかと結ばないと終われないように感じるので、考えるに、たぶんこれは「一歩進んで二歩下がる」の前に半歩踏み出しかけたところの心象風景。

 

おつきあいいただいて、ありがとうございます。