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今月のおすすめ

つくった物語のなかからご紹介します


『うららか、うらら』


ココアを注文するためオーナーを見あげた拍子に、ケイコは気づいた。白木蓮が咲いている。

「春は東、のどかにうららに、うららかうらら」

枝から歌がこぼれ落ちた。

 

ケイコが初めて実家を離れて住んだ学生寮の裏には白木蓮があった。

入寮のとき、母が一緒だった。

あそこに共同のお風呂があるのね、食堂がここね、売店は向かいにあるね。

寮監から鍵を渡されて生活棟を通るあいだ、ケイコに覚えさせようと、母はその都度立ち止まった。

あとで調べるからいいよ、早く行こうとケイコは先を急いだ。

その日のうちに母は帰る予定だったから。

ケイコの部屋は五階だった。エレベーターなんてない。階段を登る。

まだなの。まだまだ。つらい。膝が痛い。

コンクリートの壁にふたりの声と靴音が跳ね返って響いた。

トイレはフロアごとにあるね、洗濯場と炊事場が隔階ね。

母は休憩しながら、それも声に出してケイコへ知らせた。

鉄のドアを開けると、窓がひとつ、ベッドがひとつ、洗面台がひとつ、机がひとつ。薄暗くて冷んやりしていた。

まるで牢屋ね、と母が机の埃を払って荷物を置いた。

眺めはいいよ、とケイコは窓を開けた。

空がぼんやり霞んでいた。いくつもほかの寮が並ぶ。

本当ね、と母が隣に立った。

ふっくらした母の横顔、いつもの石鹸の匂いがした。

寮から家まではバスと電車を乗り継いで最短で四時間かかる。

ずいぶん遠くまで来たんだな、とケイコは思った。

母の指導のもと、部屋の掃除をして、必要なものを売店でそろえ、すぐに時間は過ぎた。

「春は東、のどかにうららに、うららかうらら」

バス停へ向かう木立、足でリズムを刻んで、つぶやくように母が歌った。

母を見送り、ひとりではいった部屋は、急に暗くなっていて、うそ寒かった。

さっきまで母がいたときは、もう少し明るくて、あたたかかったように思う。

まるで牢屋ね。

眺めはいいよ。

ケイコは部屋を突っきって、力任せに窓を開けた。

空をにらんだあと、窓枠に額を預けた。

どれくらいそうしていたのか。風が頭をなでて、ケイコは顔をあげた。

濡れた頬を拭った。

青く暮れる裏庭に、白い花がぼんやりと浮かんでいた。

誰もいないと思ったけれど、白木蓮だけには見られたかもしれない。

秘密だよ、とケイコは少し笑った。

 

 

あれから十年。

夜通しの立ち仕事でぱんぱんにむくんだ脚を伸ばす。

オーナーが生クリームたっぷりのココアを運んでくれた。

熱い、甘い、幸せ。

ほっと呼吸をして、絨毯の上へ寝転がる。

しばらく帰ってないな、今度の休みこそ、と思いながら、束の間の眠りに落ちる。

うららかうらら。

 

石鹸の匂いのする歌が胸に響いている。


文学フリマのためのテガキマメホン