歩いて読む大きな本


ギャラリーチフリグリの白壁。

ここをページに見立てて、本をつくりました。

紙テープを裂いてほどよい幅にし、そこへ切り抜いた文字を貼りました。文字の裏表をまちがえ注意。案の定、「四」が!

紙テープへ貼った行を壁へ吊るしていきました。

7時間ほどかけてすべての文字を貼った上で、絵や木工の配置を決め、行間などを調整。

作業中、床に落ちた「れ」が「きれいだね」という話になり……。



そうこうして、偶然が重なり、もろもろの配置がもっとも適切な形できました。

展示の様子をどうぞご覧ください。

展示にはいろいろな方が足を運んでくださいました。

ちいさなおはなしに、ぴったりな箱だったギャラリーチフリグリ。

ぐるり一周すると、おはなしを読めるつくりとなりました。

水族館のなかの魚みたいに、ぐるぐると何周もしてくださる方がいました。

いっしょに歩きながら、おはなしや絵について、思ったことを、じっくり聞かせてくれる方もいました。

お話を伺って実感したのは、読まれた瞬間に、読み手の方独自の物語が生まれるということです。

同じ文章、言葉を読んでも、そのひとのうちに想起される世界は、見事にそのひと固有のものでした。

ひとのなかに生まれる物語の多様性がおもしろいと思いました。

 

今まで作り手として、その場で読まれて、直に感想をもらう体験は初めてでした。

目の前で物語が読みこまれて共有されていく。得難い経験でした。

 

読み手の方とお話をするうちに、私自身も、「四十雀」のおはなしがなんだったのかという認識の輪郭が少しはっきりとしました。

 

 

さて、壁に貼られた文字。

彼らを最終日に燃やそうと計画したのは、切り抜く日々の時間がなかなか大変だったからです。

展示が終了すれば、紙屑になります。

ただ紙屑にするより、お焚きあげをしたら、なんだかおもしろいのじゃないかと、それだけ最初は思いつきました。「お焚きあげをする」予定は決まっていても、それがどういう意味を持つのか、わかっていませんでした。

 

けれど、実際、切り抜いた文字をふたりで紙に貼り、壁へ配置してみると、ひとつひとつの文字が生き生きとしていました。アンバランスさのために、紙に貼るという不安定さのために、揺れて、踊っているようにさえ見えました。

 

展示が始まり、いろいろなひとの目に触れるにつれ、だんだん文字が「見られている」意識を持ってきているような気がしてきました。

つまり、どんどん生き物らしくなっていきまいた。

 

そう、やっぱり、最期には、きちんと炎に焚べて、空へ昇らせてあげなくてはならない存在になっていました。

 

だからもしかしたら、「お焚きあげしよう」と思ったのも、切り抜かれた文字たちからの、(文字のくせに)無言のメッセージを受信したのかもしれません。

ご来場いただいた方たちにも参加いただけて、にぎやかな会となりました。

言葉を読みあげながら焚べてくださったり、燃やす文字を楽しんで選んでいただけたり。

燃えあがっていく様は、一番の文字の見せ場でした。

 

いつも、つくるおはなしは、何度も修正し、読み返すうちに、自分の気配がどうしても移ります。

今回、手でひとつずつ切り抜いた文字にも、どうやら、自分の気配が移ってしまったようです。

だから、たぶん、文字が火に焚べられるとき、自分の手から伸びたなにかが、いっしょに燃えていたのだろうと思います。

燃やされているとき、「どういう気持ちか?」と尋ねられて、「なんとも言えない。火葬です」と答えていたのはそういうことだったのだろうと思います。

 

文字どおり、「燃え尽きた」ということなのかな。

 

ですので、一緒にお焚きあげしてくださったみなさま、ありがとうございました。

おかげで、この展示でしかできない経験ができました。

燃やすことをご了承いただいたり、いろいろな方とつないでいただいた、ギャラリーチフリグリさまにも、心より感謝申し上げます。

そして、今回挿絵を描き、展示をいっしょにしてくれた恵さん。

多くの言葉を伝えあわなくても、イメージを共有し、偶然にも偶然が重なり、こうなるしかなかった展示をつくれたのは、恵さんだったからだと思っています。

どうもありがとうございました。