ゆっくりと時の落ちる春の午后のことです。わたくしと猫背先生は岩陰へ潜み、双眼鏡で浜辺の人魚を観察していました。
人魚は包丁でみずからの胸を裂き、記憶のかたまりを切り抜きました。
人魚は包丁で砂浜を掘り、記憶のかたまりを埋めました。
人魚が海へ帰ったあと、わたくしたちは砂浜を掘りました。
記憶のかたまりは人魚の血液でぬれています。
「これは妬みや憎しみの類の記憶でしょうか、先生」
「さあ、どうかな。きみも持ってごらん」
猫背先生はわたくしに記憶のかたまりを渡してくれました。
両手で受け取ったそれは、まだあたたかく、ひと拍ひと拍脈打っています。
人魚の血液はこまかく砕いたガラスのようにかがやいています。
月光にきらめく波のようです。
「さて。ではこれを教室へ持って帰ろう。どういう類の記憶なのか、調べてみようではありませんか」
猫背先生は丁寧に記憶のかたまりをガーゼへくるみ、遮光容器に保管しました。学校まで、わたくしはその容器を持たせてもらいました。容器はだんだんと重くなっていきました。
それはまだ知りえない人魚の記憶がどんなだかを想像する、わたくしの思考が容器へまとわりついてからまっている証拠でした。
「あまり想像してはいけないよ。密閉容器とはいえ、開封するときにきみの想像が記憶のかたまりへ添加されてしまう可能性はあるのだからね」
猫背先生は振り返らないまま、わたくしに注意を促しました。
先生は背中を向けていても、わたくしのことなどお見通しなのです。
「ああ、でも先生、人魚はどうして胸を裂いて記憶を陸へ埋めたのでしょう」
胸を裂いて取り出した、そこへ生じた空洞に、人魚は新しいなにかを詰めるのでしょうか。
それとも空洞のまま風を吹かせておくのでしょうか。
波間に顔を出して陸を振り返る人魚を思い描いたとき、わたくしの胸に海がこみあげるのでした。
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初出:2015年9月『長月日記』の中に『9月5日』分として掲載
2016年5月1日発行 文学フリマ岩手配布フリーペーパーへ掲載
2023年2月発行『小編集 すべて星のかけら』に加筆修正して収録

