蛙の卵のひとつにでもなったみたいだ。
そう思って、男は吐き気をもよおした。
満員電車にすきまなく満ちる人の数、じぶんもそのひとり。
蜘蛛の糸でもつかむように吊り革を握りしめ、車窓に映る夜に視線を逃す。
明るい光が流れゆくなか、生まれ育った町のなにもない空を想像しようとしては失敗を繰り返す。
息苦しい、だめだ。
襟に油汗がにじむのを感じて青ざめうつむいたとき、正面に座っていた女が文庫本を開いた。
すると、その文庫本から、濃厚な森の香りが広がった。
さわやかな風が吹き、男の前髪をゆらした。
いったい、これはどういうこと。
女がページをめくるたび、風は吹いて、木々が枝をゆらす音まで男の耳には聞こえた。
男の汗は引いていった。
やがて電車がスピードを落とし始めると、女が眼鏡越しに視線を男に向けた。
男の顔色を確認すると、女は文庫本を閉じて鞄にしまい、停車駅で立ちあがった。
なにが起こったのか把握しきれないまま、男はまごつき、ただ、女を凝視して不恰好に頭を下げた。
「あの、その、ええと」
「いえ、なにも、べつに」
女もくぐもった声でぎこちなく会釈し、男の横を通り、蛙の卵に混ざってホームに降りていった。
空いた車内で、男はシートに腰をおろし、息を吐いた。
目を閉じると、女がまるい手をそえて開いていた本から、木々が芽吹いてゆく姿が想像された。
本のタイトルを教えてもらえばよかった。
男はそう思った。
