ポストに届いたのは真っ白い封筒だった。

「ご招待状 猫又温泉郷」と記されている。

「ぼくのあくびを聞きたくなったら 来ていいよ」

 

この招待状を用意してくれたのは、あの子だとわかった。

もちろん、いつでも、いますぐにも、のんびりとした、あのあくびを聞きたい。

 

封筒にはほかにもなにやら入っている。

ぽ、と封筒を開くと、懐かしい日向の匂いがした。

栞に書いてあるように、ほかにも何枚か紙が出てきた。

これがすべてだった。

さっそく、旅の栞に沿って、準備を始めることにした。

記:2021年3月14日


お弁当バスケットには、あの子の好物をいれた。

歯肉炎にならないように、腎臓を悪くしないように、やわらかいものや塩分の多いものはあまり食べないようにしていたから、あの子は人間の食べ物の匂いが大好きだった。

お弁当用に焼いたシャケを冷ましているとかじられたことがあったね。

焼きぞばにふりかけた鰹節も食べにきた。

バターの匂いも好きだった。

私が顔に塗るアロエジェルとホホバオイル。あれもいやに好きだったね。洗顔を完了すると、手や顔を舐めにきた。皮膚をこそげ落とすような、ザラザラした舌だった。そもそも、猫の舌がザラザラしているのは、骨にこびりついた肉を落とすためだというから、やはりこそげ落とそうとしていたのかもしれない。

まぐろやかつお、鶏肉のカンカン。あれは棚から取り出すだけで、封をあけてもいないのに、察知して、「早くあけて」と鳴いて、私の足や腕に手をかけて催促した。目がまんまるに開いていた。

すぐに食べ終えて、片割れの子の皿も食べにくるから、ドアを閉めて別の部屋で食べさせた。

たまにしか、食べさせてあげなくて、ごめんね。もうなんでも好きなものを食べていい。

旅行鞄にはお土産を詰めこんだ。

ネズミのおもちゃ、猫じゃらし、紐。

鞄にはなんでも入った。いくらでも詰められた。

お気に入りの場所も入れられそうだった。

私の足元で眠るのがすきだったから、ふとんも持って行こう。

地べたソファを一番先に気に入って使ったのはあの子だった。そこで毛づくろいしていた。

私がまんなかへ座ると、だいたい左側へやってきて、ちいさな頭を乗せて、横にころがって、お腹や脇を撫でてとみせてきた。

日向に置いたクッションベッドも好きだった。太陽の匂いと、君の匂い。首元やお腹の白い毛に、顔を埋めると、私の顔をザラザラの肉削ぎ舌で舐めてくれた。私の悪いものを食べてくれてしまったのじゃないかと、思う。そうだとしたら、そんなことはしなくてよかったのに。

この一年、ふしぎと、「長生きしてね」「なにもしなくていいから、そばにいてね」と、体調を崩す前から、言っていた。

午前三時に枕元で、なんでもなくても鳴いて、私を起こしていなくなる。

エアコンに飛び乗って、降りられなくなって、カバーを壊しながらおりてくる。

カーテンレールもななめにしたね。

作業中に、腕に手をかけて邪魔してくる。キイボードの上を歩く、画面をふさぐ。

そんなことをずっと続けてくれたらよかった。

きみがあくびをするだけで、ほぐれていた緊張の、解き方が今はまだわからない。

 

手荷物をまとめ、蒲団西口乗り場22番へ。

もう片方の子へ「いってきます」と声をかけた。

記:2021年3月21日


バスのなかでは夢も見なかった。

私はいつのまにやら停車場に立っていた。

白く靄がかかって辺りの様子はよくわからない。

ぼんやりとしたあたたかさが煙たく香る。

太陽が残していった匂いだと思う。

空はもうどこにもなかった。

……耳に音が届いた。

かすかに聞こえるものを間違わない。猫の声。鈴が甘く鳴るような。どこかから聞こえる。

 

「重たそうな鞄だね。持つの手伝うよ」

後ろから声をかけられた。男の子がこちらを見上げていた。

「大丈夫だよ」

確かに鞄は重い。しかし中には大事なお土産が詰まっている。誰かに預けることはできない。

ただ、この人懐こい男の子にはなにか懐かしさを覚えた。

真っ黒な髪がつやつやとしていて、撫でたくなる。

「じゃ、そこまで一緒に行こう」

男の子が進むと、すうっと霧が開けて、土の道が伸びた。

木々がアーチをつくっている。ふしぎなことに、太陽も見えないのに、木漏れ日がきらめいていた。

でこぼことした道にセロファンのような木漏れ日の影がうつろう。

……この道を知っている。左を見上げた。そこには木造アパートがある。柵越し、外廊下には雨晒しの洗濯機がある。その隣に学生がしゃがみこんでいる。食堂のバイト帰り、シャツに油と汗がしみている。学生の膝には黒猫が眠っている……

 

男の子は道の少し先で私を待っていた。

手荷物のバスケットから、缶詰をひとつ取り出した。

「君にあげたいって思ってた。ごめんね」

「どうして謝るの?」

「好きだったから」

男の子は缶詰を両手で受け取ってくれた。小さなその肩をそっと抱きしめた。

部屋にあげてあげられなくて、ごめん。

いつも来てくれて、ありがとう。

腕を開くと、男の子は消えていた。

木々のアーチは、靄の奥へと続いていた。

 

 

記:2021年4月10日


〈音の館〉

靄をスプーンでひとつくりぬいたところに、その建物はあった。
飛び石には猫の足跡。
〈音の館〉と看板にいびつな癖字で書かれている。見慣れた私の字だった。
青く塗られた木製の、両開きの扉を開く。オーン、と高い声が響いた。

……私はやわらかな四角のソファに座っていた。
まぶたが目にしっかりとくっついていて、開けない。目玉をごろごろと動かす。はがれない。

首も肩も足も指も関節がなくなったみたいに、動かない。体を動かす仕組みがほどけてしまったようだ。

ふ、ふ、

こめかみあたりで綿毛をゆらすような音がする。

 

 

記:2021年8月19日